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D陣日誌
- スタッフより
2024.05.17
嬉野です。日誌です。
いやいや、なんだか知らぬ間にもう土曜日なんですねぇ。
さて、私もね皆さん。人生、60数年生きてきましたけど。世の中で偉いはずの立場の人たちが、こんなにも大量に悪人になって、しかも、ここまでグルになってふんぞり返ってる時代もなかったもんだと思いますとね、いったい人間ってのは何を契機に悪人になってしまうんだろうと、このところ考えずにはいられない。
まぁ、私が考えたところで、たかは知れてるんでしょうが、それでも、考えずにはいられない。
で、思いついたのは、「正直、不正直」のような気がしたんですね。
あのコロナ禍の3年間というものは、それまでYouTube動画なんか、たいして見てもいなかった私を、しっかりとYouTubeウォッチャーにしてしまったところがありますよ。だってねぇ、テレビや大手新聞ではけして教えてくれないことを、YouTubeでは専門家の方々が、「どうしてこんなにも大事なことをテレビは報道してくれないんでしょうか」と、戸惑いと危機感と憤りを交えながら詳しく開陳してくれてましたから、そんな動画を見て私もハッとして、ついついYouTube情報に信を置いて、それからというもの何かとYouTube動画を視聴する習慣がついてしまいましたよね。
本当に、知らないうちにマスコミは、我々に「てぇへんだ!てぇへんだ!」と教えてくれる存在ではなくなっていて、意外に、偉い人たちに寄り添って、偉い人たちの都合の悪いことには、ダンマリと知らんぷりをするようになっていたんだ〜と、なんだかあまりにも思いがけなさ過ぎて、めっきり気持ちもへこむわけです。
でも、そんなとき思ったんです。
だったら「水曜どうでしょう」は、そんな社会で、なんだって未だにテレビ番組として堕落することもなくやれてるんだろうと、そこもつい考えてしまったわけです。
どうして、「水曜どうでしょう」だけは堕落しないのでしょうか。
おそらく、それって、「水曜どうでしょう」が、一貫して正直であり続けるテレビ番組だから、であるように思えてくるのです。いや、もちろん大泉洋さんには毎回隠し事をして、彼を騙してね、どちらかというと「水曜どうでしょう」は、「不正直で」のし上がってきた印象は、たしかにあります。
でもね。その間も視聴者の皆さんには大泉洋さんを騙していることは逐一詳細に告げながら放送してきたわけですから、大泉洋さんには不正直だったかもしれないけど、世間に不正直だったことは一度もないわけです。
さらに、こまかいことを言いますと、番組チーフDの藤村さんなどは、海外ロケで車を運転してもね、Uターンするまでは、「道が分からなくなった」とは、けして白状しませんから、まったくもって不正直なんですが、さすがにUターンしちゃったらね、「これはもう、これ以上は隠しおおせない」と思えば、キチンと我々に打ち明けて、そのとき我々からは罵詈雑言を浴びせられようとも「正直」に白状するわけです。
もっと重要な「正直の話」をすればですよ。藤村さんは「北海道に家、建てます」のロケ中に「水曜どうでしょう」の作り方が分からなくなって、内心焦りと不安の孤独の中にいたであろうときも(まぁ、これは私ひとりの勝手な推測ですがね)、もう、このプレッシャーをこれ以上ひとりで背負うのは耐えられないと思った瞬間、オニのような判断力で、「迷走してます」と、あえて本番中のタレントを前に正直すぎるまでの爆弾発言をし、まんまと視聴者を含め満座の爆笑を勝ち取るわけです(転んでもタダでは起きない、ここの判断力がとてつもなく大事です)。このように藤村さんは、本番中に、正直と不正直を死に物狂いの馬力で使い分けて番組の流れをコントロールしてきたんだと、私は思いますよね。
大泉洋さんも、ロケ本番中の企画発表で、どんなに藤村さんに誘われてもご自分で気分が盛り上がらない限りは、絶対に藤村さんの誘いに乗ろうとはしない正直さをカメラの前で貫こうとします。ですから、藤村さんにしても、そのことを考慮した上で、話の流れをどのようにもっていったら大泉洋を絡め取れるか、プレゼンの順番から何から周到なシミュレーションをおそらく前夜は徹夜で用意してから毎回本番に臨んでいると思うのです。
さらに些細なことを言えば、食ったうどんが本当に心から美味いと思わない限り、荒々しく「うまい!」と叫ぶこともないという、こんなとこにも自分の気持ちに正直であることを貫く信念が見えるわけです。
つまり、「自分に正直であることを捨ててしまったら、もう、おもしろさには辿り着け得ないのだ」という信条が、我々4人の中には共通のこととしてずっとあり続けているということです。
「正直一途」という、これが、どのような時代になっても、「水曜どうでしょう」を堕落させない要因になっているのであろうと、私には思えるのです。
不正直は、なにか大きなものに流されて、「自分に正直であろうとすること」を捨て、何か大きな存在にハンドルを渡してしまうことであり。
そうしてしまうのは「正直でいるより不正直の方へ流されてしまう方が楽だ」と思ってしまう瞬間が当人にあるからです。だから自ら「不正直へ」進んでしまう。
でも、不正直になったら、もう、おもしろくはならないから、しんどくても正直を貫く。
何があろうと、とにかく最後は、正直に着地する方が人生は楽にもなるし、楽しくもなるということです。
「自分に正直であろうとすること」がしんどくて、不正直に流されてしまう方が楽に思えるときはかならずあるけれど、でも、不正直のままでいても、いつかは辛くなってくる。だったら苦しくなってきたら思い切って不正直を捨てて正直になってしまう。これ意外に人間が楽になれる道はないと、私は思うのです。
なんだか、そんな「正直・不正直」といった、あまりにもシンプルなことが、でも意外に人生にも、この世界にも大事な大事なことであって。
人生いろいろあっても、やっぱり最後には正直に着地するという選択をすれば、人間は悪人になってしまうことはないと、私には思えるのです。
まぁ、そんなこと考えながら、このところ雑誌「kotoba」の原稿を書いていたもんで、うっかりこの日誌も土曜になってしまったというわけでね。
とはいえ、今後はね、日誌は「1回パス」とか、あるんじゃないかしらと思いますし(^^)パスは何回までとかね、その辺りも臨機応変にやって参りましょう。
ということで、皆さんも白いトンカツを揚げたりで楽しそうで何より(^^)
それでは、みなさん。
かくのごとく仕事だけは正直に参りましょうね〜。
どうで荘に居候中の講談師、玉田玉山です。前回のお初の更新では僕のねちょねちょした部分が出てしまったので今回は反省、からりとした文章を志向しますからどうぞよろしくお願いします。
今日は居候と芸人、についてつらつらと書き綴る所存であります。
我々講談師、落語家など伝統芸能従事者は古来より「住み込み」という制度があり、師匠の宅へと起居し、共に暮らし、家事などをこなす、という習わしがある。これは一つの居候の形であると言えよう。
江戸明治の御代に芸人などになろうというのは痴れ者、たわけ者の類である。
当然生活態度も悪いものが多かったろう。遅寝爆食寝坊などは当然として、窃盗、寸借詐欺、食い逃げ、暴力沙汰など小悪党の行う各種不行状不行跡の体現者たる者どもが、ヤクザor芸人という二択の末、腕っぷしの強いものがヤクザ、口喧嘩が強いものが芸人になるというような世界観である。
であるからそれなりにしつけをしなければならず、そのためには衣食住を師と仰ぐものと共にして生活を矯正していかなければならぬのだ。これはヤクザも師がオヤジに変わるだけで同じことであろう。
完全アウトローの犯罪者と、まっとうな社会人の間にある、まともに働いてい居ないけれど、金を稼ぐことができて、公僕からとらえられることもない、という謎の立場。社会のバッファとしての芸人とヤクザ。そういう灰色の立場であるからこそ、守らなければいけないけじめや筋を生活を共にして叩き込まれるわけである。
この際重要なのは、ここで叩き込まれるのは「嘘をつくな」とか「暴力をふるうな」とか「早起きをしろ」だとか「酒を食らいすぎるな」とか「たばこは一日2本まで」といったことでは無い、ということである。
そういうことがどうしようもなくできないからヤクザや芸人になるのである。
つまり「そういうことができなくても生きていける為にはどうしたらよいのか」と叩き込まれるのだ。
そこで叩きこまれるのは「しょうもない嘘はつくな」や「暴力を決して振るってはいけない相手がいる」、あるいは「上下関係」や「兄貴分への厳粛な態度」だとか「同業との間での決してたがえてはならぬ筋」などである。
これを生活レベルでインストールしていく。インストールできない場合は殴られたりしながら矯正を続けていくのだ。
そうして住み込みと言う名の居候をこなした後の芸人、あるいはヤクザは、芸人やヤクザの倫理を骨の髄から叩き込まれて社会の人々には手にできない倫理観というのを身に着けている。
ヤクザが落とし前と言って指を落としたり、いくら年下のアホでも芸歴が上ならば「兄さん」と立てて、どれだけ売れっ子相手でも自分が先輩ならば飯を奢ってやる、各種難解な業界用語、符牒の類を駆使した会話、などの不合理な行動がそれらであろう。
それらにあまり意味がなく、実社会にはそれらの倫理が殆ど関係がない、ということが重要だ。別にそれらの倫理は社会人にとってうらやむものでも何でもない。しかし墨守をする。
そういった不合理な習わし、因習に従っている芸人やヤクザに対して、社会で生きるまっとうな人々は、そのまっとうで無さにの迫力に気圧される。
そしてヤクザや芸人間の倫理を黙認することによって特に不利益があるわけでもなさそうなので、それらの意味の分からない職業の存在を許すことになるのである。
しかし時代が進み、法整備と警察権力の安定化、グレーゾーンの存在が少しづつ小さくなっていく。
そしてマスコミの異常な隆盛に巻き込まれるように芸人の立場は向上する。芸人が社会人化してくる。社会人でもやっていけるような人間が社会人では得られない栄達の為に芸人になるという世界観になってきたのが現代だ。
古来「低能の逃げ場所」であった芸人の世界が「高能力者が鎬を削る、社会でもトップクラスの激しい戦場」となってしまったのである。
社会に組みこまれた芸人の世界。
そうなってくると妙な倫理観や不合理な行動というのは邪魔になってくる。
何の役にも立たない不合理の不合理故の迫力、で以てなんとなくの社会からお許しを貰ってそこに存在していた芸人が、社会でまっとうに存在するために不合理を脱ぎ去るフェイズが今だろう。
今の売れていく芸人はものすごい。早起きをして、ネタを書いて、アホほど稽古をして、賞レースに向けて作戦を立てて傾向と対策を行い、出会った人々に愛想よくし、仕事を提案し、明るく振る舞う。正しい努力を重ねて結果を出して売れていくのだ。
もう江戸明治の芸人の姿はそこにはない。
必然として住み込み、師匠宅での居候、といった伝統も過去のものになっていったのである。今は住み込み、つまり居候というものは東西の講談・落語業界では行われていない。
ヤクザは知らない。やっていそうだ。
しかしながらやはり、江戸明治の時代に居た不行状不行跡の体現者たる人物、というのはそれでも少しづつ産まれてきている。
腕っぷしが強いものはヤクザになる道もあろうが、腕っぷしの弱いタイプの行き場はなくなってしまったと言っても過言ではあるまい。
何を隠そう僕はそういう腕っぷしの弱いタイプの男である。
どの会社でも勤まらず、上手くいかず、お笑いっぽい活動もしてみたけれど、それも全くの不調に終わり、流れ着くように講談の世界へとやってきたのだった。
正直師匠も嫌だったと思う。もっと有能で有力な人が来てほしかったと思う。やってきたのは根暗で能力の無い男である。しかも社会性が欠如していると来た。
社会性がない人間は、お笑い芸人の世界では干し上げられ放逐される。近くで観ていると落語の世界もそうである。基本的に無茶苦茶な奴というのは残っていっていない。
しかし、講談の世界は違ったのである。
もちろん無茶苦茶をするとハチャメチャにお叱りを受ける。改善に向けた案を出さなければたぶんおしまいである。
しかし改善に向ける努力を提案し、社会というのはその提案が結実、結果が出なければそれはそれで首を切られるわけであるが、努力と試行錯誤の時間、を許してもらえる。
これは社会的には、効率的には全くの不合理であろう。
しかし弟子を育て、一門の芸を繋ぐ、という不合理な倫理観が、お笑いや落語のように社会に接続できずに滅びかけ続けている講談の世界には生き残っており、我が師匠もそれを捨てていなかった故に、一門の芸を継ぎたい、という姿勢がある限りは叱り続け、居続け、いわば居候を許してくれたのである。
何の生産も行わず、仕事を持ってくるわけでも、金を生むわけでもないおじさんに、無償で倫理と仕事を教え続け、飯を与え、高座を与え続けてくれたのである。
不合理も不合理。しかしこの不合理に救われて今、何をやっても屁にもならなかった僕が、講談師としてなんとか生きることができている。
一門の為、講談業界の為ににならぬ、となればたぶん一刻の猶予もなく放逐されてしまうんだろうが。そうなったら講談は辞めなければならないだろう。
そういう意味では僕はどうで荘に居候しながら、講談の世界にも居候しているのかもしれない。大きな名前を襲名したり、弟子を取ったり、そういう形で講談や一門の存続に参画てきた時に初めて、居候から脱し、一家を構えるということになるのだと思う。
住まいも仕事も居候。全く以てふわふわとしたものであるが、ふわふわ以外もできぬことなので、ふわふわともうしばらく居候ライフを送り続ける所存であると宣言をいたしまして、本日の私の、現在地点からの日誌とさせていただきます。
編集部注:作者の個性を反映して、誤字脱字・思い込み・事実誤認もそのまま掲載しております。
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